救 われないと思う、午前2時













 いつのまにか、空からは細かな雨が降り注いでいた。
 心もとない蛍光灯に照らし出されるマンションの薄暗い廊下にも、横風に煽られた雨がじわりと暗い染みを広げている。山本は抱え込んだ膝をさらに引き寄せ 身を小さくすると、立てた膝にそっと顔を埋めた。鼻先を掠める雨の匂い、手の中で携帯電話を弄ぶ。新着メールの確認を諦めたのは、何時間前だろう。ふい に、雨音に紛れて近づく足音が聴こえ、山本は弾かれたように顔を上げた。段々と近づく足音は、山本のいるマンションの前でとまる。山本は耳を澄ませた。何 分経ったろう、エレベーターの扉が開く音がして、かつん、かつんと足音が近づいてくる。山本は立ち上がり、服の皺を軽く伸ばすと、傍らに置いた紙袋を持ち 上げる。
 「……山本?」
 袋を持ち上げたと同時に、曲がり角から姿を現した待ち人の姿に、
 「獄寺」
 思わず、呆然とその名を呟いた。獄寺の眉間に皺が寄る。
 「んでお前、ここにいんだよ?」
 「――昨日、約束しただろ?明日、学校終わった後、獄寺ん家に行くって」
 「あー、……そうだっけ?」
 獄寺はポケットを漁りながら気のない声で首を傾げる。目当てのものが見つかったらしく、獄寺は白い指でポケットから鍵を取り出すと、ドアの前の山本を
 「どけよ」
 片手で軽く退け、鍵を開けた。瞬間山本の鼻を掠めたのは雨の香りと、それから、知らない香り。
 「っ獄寺、」
 「なんだよ」
 「どこ、行ってたんだ?」
 家に入る獄寺を追って、足を一歩踏み出す。ぱたん、と背後でドアの閉まる音。獄寺は山本の質問に答えない代わりに、めんどくせえな、と小さく毒づいた。
 「なあ、獄寺」
 電気を点け、靴を脱いで行こうとする獄寺の腕を山本は咄嗟に掴む。薄いワイシャツの袖が引き攣れ、いくつもボタンが外されていたためか、獄寺の細く白い 片肩が露わになる。そこに刻まれた痕に、山本は言葉を失った。首筋から肩口にかけて散らされた赤い花、それから打撲痕に噛み痕。めんどくせえな、再び呟き 振り返った獄寺の胸元にも、その痕は残されていた。瞬間頭に浮かんだのはひとりの人物で、思わず呟いたその名に
 「そういうことだ」
 と獄寺は軽く肩をすくめて見せた。
 「な、んで」
 その呟きに、獄寺は硬直する山本の顔を覗きこむと、にっと唇を歪ませた。
 「今日は激しくされたい気分だったんだ」
 お前じゃ足んねえんだよ、妖艶ともいえる笑みを浮かべ、獄寺は山本の手を払いのけ廊下を後にした。獄寺の手は酷く冷たい。山本は獄寺を追った。

 「獄寺、」
 獄寺に続いてリビングへ移動する。かさり、と手に持った紙袋が音を立てる。獄寺はソファーに身を沈めると、深いため息を吐いた。
 「なんだよ」
 「…………腹、減ってねえ」
 山本は精いっぱいの笑みを浮かべ、手に持つ紙袋を掲げて見せた。獄寺はちらりとその紙袋を一瞥し、
 「減ってねえ」
 と答えた。冷たい、声だった。
 「――――……なあ!」
 「なんだよ」
 「……――今日、何の日か知ってる?」
 山本は獄寺に近づけなかった。視線だけ、真っすぐに獄寺を見つめて、問いかける。獄寺は視線を反らし、
 「知らねえ」
 と答えた。冷たい声で。
 山本はリビングから続くキッチンへ行き、紙袋から箱を取り出した。そっと箱を開く。箱の中身は小さなホール

ケーキ、ケーキ上のチョコには”Buon Compleanno,Hayato”の文字。図書館で辞書引いて調べて、ケーキ屋の店員に頼んで書いてもらったものだ。山本はケーキを箱から取り出すと、ごみ箱に捨てた。潰れたケーキの甘 い香りを嗅いで、山本は獄寺を愛してると実感する。同時に、どうしても獄寺を憎む気持にはなれないことに気づく。たとえ獄寺がそれを望んでいたとしても。


かちり、時計の秒針が進む音。
救われないと思う、午前2時。






2010.10.11  RM4無料配布ペーパー
2011.02.04  一文だけ、加筆