雨の気配が、した。 鼻を付く空気は微かに濡れ、感傷を孕んだその香りに獄寺は目を覚ました。ゆっくりと身体を起こし、窓辺に目を向ける。カーテンに覆われた窓からは、外の様子を窺うことは出来なかった。獄寺は小さくため息を付く。隣で眠る存在をちらりと確認し、傍に脱ぎ捨ててあったシャツをおざなりに羽織ると、獄寺はベッドを後にした。 寝る前に飲んだ酒の酔いは醒めていた。あの日、の前は、毎年そうだ。酔いたくとも、酔えない。情事後の気だるさが残る身体はしかし、冷え切っていた。顔でも洗おうとバスルームへ向かった獄寺は、途端激しい吐き気を覚え、洗面台にしがみついた。だが、口から漏れたのは弱弱しい喘ぎだけだった。うっそりと顔を上げると、鏡の中からやつれた自分自身が見つめ返してくる。獄寺は鏡に映る青ざめた自身の頬を指先でなぞり、自嘲の笑みを口に刻んだ。酷い顔だ、本当に、どうかしてる、昔のこと――そう、あの人が、死んだ、日のこと――ばかりを思い出して、悪夢までみて、本当に、馬鹿みたいだ。獄寺は鏡から目を反らした。 寝室に戻る気には、どうしてもなれなかった。足は自然とリビングへ向かった。酒が欲しい。酔えないとは分かっていたが、それでも飲まずにはいられなかった。ソファーに腰を下ろし、グラスにワインを注ぐ。血のように鮮やかな赤が、網膜に焼き付く。きれいだな、と思った。そうしてグラスを傾けかけた獄寺の手を、温かな手がそっと包み込んだ。 弾かれたように顔を上げた獄寺の視線の先で、山本は瞳を細めて微笑んだ。何だ、と視線で問いかけた獄寺に、山本は眠れないのか、と言った。分かりきったことを、獄寺は鼻で笑ってみせた。そうか、と小さく呟いた山本に、獄寺は再び手にしたグラスを傾けようとする。しかしその行為はやはり、温かな手に阻まれた。文句を言おうと開きかけた口は、温かな唇に塞がれる。軽く触れたそれは、何故か、泣きたくなるような優しさを含んでいた。突然の口付けに固まる獄寺の手からグラスを奪うと、山本はテーブルに置いてあったボトルと共にそれを持ってリビングを後にした。獄寺はただ山本の背中を見送ることしか出来なかった。 しばらくして、再びリビングに戻ってきた山本の手には、獄寺のものと思われる服があった。山本は獄寺の手を取ってソファーから立たせると、獄寺に手早く服を着せていく。いつの間にか山本は着替えていた。着替えが終わると、山本は獄寺の手を取って、リビングから廊下へ、廊下から玄関へと導いた。獄寺はされるがままになっていた。玄関へ辿りつくと山本はドアを開け、自分の身体でそれを押さえながら首をかしげて外へ出るよう獄寺を促した。獄寺はそれに従った。 外へ出ると、やはり、雨が降っていた。細かな雨が肌に触れる感覚に、獄寺はふるりと身体を震わせる。雨は、酷く冷たく感じられた。震える身体を抱きしめ夜空を見上げていた獄寺の視界に、ふと、傘が差し掛けられる。獄寺は傘に気付き、そうして傘を差し出す山本に気が付いた。山本は少しだけ困ったような笑みを浮かべていた。その唇が小さく「おめでとう」と呟いた時、獄寺は何かが解ったような気がした。 遠慮がちに伸ばされた山本の手が、酷く愛おしく思えた。温かなその手を握り締め、獄寺は小さくばか、と呟いた。山本は苦笑して、獄寺の肩を抱いた。大きな傘は、二人を小雨から護るには十分だった。身体の震えは止まっていた。獄寺はそっと息を吐いた。 そして二人は言葉も交わさず、目的地も決めず、ただ寄り添って、いつまでも静かな夜の道を歩き続けた。 2009.3.23
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