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 髪を撫でる指先の温かさに目が覚めた。
 「獄寺、」
 低く掠れた声が鼓膜を揺らし、穏やかなその響きに名前を呼ばれたのだと気がつく。シーツの下で合わせた素肌ごしに、脈打つ心臓の鼓動を感じた。
 「獄寺、」
 もう一度、呼ばれる。耳に慣れ親しんだ、声だった。
 「……うるせえ」
 何度も呼ぶんじゃねえ、一度強く目を瞑ってから獄寺はゆっくり瞼を持ち上げる。そうして目の前に広がる瞳と、次いでその口元に浮かぶ笑みを認め、「山本」とその名を呼び返す。山本はにこりとした。
 「おはよ」
 微笑みと共に降りてきた唇を、獄寺は瞳を細めて受け止めた。僅かに乾いた唇は乾いていて、だがきっとそれを受け止める自分の唇も乾いているのだろう、と獄寺は山本の唇の温かさの中で考えた。
 「ん、……っ」
 歯列を割って侵入する舌のやわらかさと熱に瞼を閉じかけた時、細めた目の端で朱色の陽光がぱちり、弾けた。獄寺は目を見開いて、勢い良く身体を起こす。
 「いてっ、」
 「っ、……」
 かつん、と歯がぶつかり、直後に呻いた山本を獄寺も涙目で睨みあげる。血のにじんだ歯ぐきをちろりと舐める山本の恨めし気な視線に「自業自得」と返し、獄寺は山本を押しのけベッドから身を起こした。
 「お前もさっさと起きろ」
 もう夕方じゃねえか、シーツを剥いだ裸体は昨晩の情事を色濃く残し、体中に散る朱印と腰に走る鈍痛とに獄寺は緩みそうになる顔をしかめて舌打ちをする。口内に広がる覚えのある味――きっと先ほど歯をぶつけた時に自分も傷ついたのだろう、と獄寺は再び顔をしかめた――を舌先に感じつつ、獄寺は冷たい床に足先を着けた。
 真新しいシャツを取り出しながら「山本、」振り返った獄寺に、山本はベットから身を起こし、自身の唇に軽く触れながら「なんかガキの頃みたいなキスなのな」と呟いた。山本の表情があまりに穏やかで、獄寺は思わず「何馬鹿なこといってんだ」と山本から視線をそらした。背後で、くすり、と笑みがこぼされる。
 「照れてんの?」
 「――んなわけねえだろ」
 「……うまくなったよな、獄寺」
 「はあ?」
 シャツのボタンにかかる獄寺の指が、一瞬だけ止まる。
 「キス」
 山本はまた、笑ったようだった。
 「っざけんな!」
 「あ、じゃあ――うまくなった、オレ?」
 「……死ぬか?」
 「獄寺の為なら」
 山本はそう言って、嗤う。
 山本はいつもありきたりで重い愛の言葉をあたりまえのように囁く。だから獄寺もいつもその重さをあたりまえのように受け止める。それは暗黙の了解だ。獄寺はばーか、とだけ返し、淀みなく指の動きを再開させる。と、突然温かな腕に背後から抱きしめられ、首筋に口づけが落とされた。何してんだ、と問いかけると、獄寺の香りを堪能中、と意味のわからない言語で返された。怒りに握りしめた拳に気づいたのだろうか、山本は「だって」と口を開いた。
 「久しぶりだし」
 「だって、じゃねえ」
 「一緒に任務就くの、どのくらいぶりだっけ?」
 「そう頻繁に守護者が二人も出張ってたまるか」
 「寂しかったよ、オレ」
 「そうかよ」
 「獄寺も寂しかった?」
 「――さっさと支度しろ」
 軽く首を振って背後の山本から逃れると、獄寺はネクタイを首にかけて結んだ。闇に紛れる黒いスーツに嵐の炎を映す深紅のシャツ、髑髏を象るリングをひとつひとつ丁寧に定位置に嵌めていく。最後に守護者の証であるリングに指を通して振り返った獄寺の鼻先で、
 「お願い」
 少しだけ眉尾を下げた山本が笑顔と共にネクタイを揺らしていた。
 「……前に教えたはずだが?」
 「オレ、指が太いからうまく結べないのな」
 「ネクタイは男のたしなみだ、っつてんだろ」
 「うんうん、そうなのな」
 「……」
 交わす会話は出会ってからの十年間、何度も交わしたものだった。眉根を寄せた獄寺が、深いため息ひとつで山本のネクタイに指を掛けるのも、出会ってからの十年間、何度も繰り返された光景だった。
 獄寺の美しいと形容すべき指がシルクのネクタイに絡まる。時が止まったように静まり返る部屋には、触れ合うほどの近さで交わされるふたりの吐息と布擦れの音だけが響いていた。
 「出来たぞ」
 最後にとん、と結び目を軽く指先で突き、獄寺は山本を見上げた。そうして改めてお互いの距離の近さに気づかされ、反射的に身を翻しかけた獄寺の動きを「獄寺、」あたたかな指先が留めた。
 「……んだよ」
 小指に遠慮がちに絡まる山本の指先の温もりに、獄寺は山本へ顔を向けた。山本は微笑み、「獄寺」ともう一度、その名を呼んだ。
 「今夜の任務が終わったらさ……伝えたいことが、あるんだ」
 聴いてくれる?、問いかけた山本の瞳の中で、その日最後の陽の光がふ、っと融ける。獄寺は顔を上げた。山本の瞳には獄寺の姿だけがうつっている。きっと自分の瞳にも山本の姿だけがうつっているのだろう。獄寺は微笑み、少しだけ背伸びして、
 「ヘマするんじゃねえぞ」
 山本の頬に掠めるようなキスをした。山本は一瞬目を見開いて、そして、くしゃりと笑った。
 「――約束、な?」
 そうして寄せられた唇と絡められたままの小指の温もりに、獄寺は瞳を閉じた。
 もうすぐ、夜が来る。






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