来客を告げる草壁の声に追い返して、と顔も上げずに命じるのはいつものことだ。ボンゴレアジトと風紀財団本部、隣接しているとはいっても馴れ合う気はさ らさらないし、元々そういう契約のもとここに腰を据えたのだ。必要以上の介入はしない、許さない。それは草壁も重々承知のことであり、しかしいつまでの動 くことのない気配に顔を上げ、雲雀は初めてその顔に浮かぶ困惑を知った。
 「追い返して、っていったんだけど?」
 「いや、しかし――」
 言い淀む草壁、珍しいこともあるものだ。忙しなく泳ぐ視線に雲雀は溜め息一つで目を通していた書物を閉じ、部屋を後にする。慌てて続く草壁の気配を背中 にふたつのアジト間に設置された扉の前に立ち、モニターを覗きこむ。そうしてようやく草壁が浮かべた困惑の理由を知り、雲雀は少しだけ、目を見開く。自然 に手は扉のロック解除ボタンを押していた。
 「……何の用?」
 扉の前に佇んでいた彼女が、弾かれたように顔を上げた。顔に影を落としていた長い髪が流れ、片目を覆う眼帯が露わになる。
 「助けて、」
 彼女は、クロームは言った。その表情は悲痛ともいえるもので、額にはうっすらと汗が滲んでいる。雲雀は彼女の肩を借りて立つ人物に一瞥を送り、再びクローム に視線を戻した。
 「お願い……」
 さらり、と視線の端で月光を思わせる銀髪が揺れる。うなだれるように下を向く彼の表情は伺うことができないが、微かに聞こえる吐息は荒く、クロームにほ ぼ全体重を預けるようにして立つ身体はピクリとも動かない。助けて、と再び呟くクロームが一歩足を踏み出した途端、彼の膝ががくんと崩れる。瞬間手を差し 伸べたのは、ほぼ反射的な行動だった。
 「隼人を、助けて」
 抱き寄せた身体は10年前、一度だけ肩を貸したそれと同じで、しかし酷く冷たかった。







あ なたが忘れ去った夜空、
わたしが呼んだ雨雲。








 抱きかかえるような形で獄寺を客室に運び、草壁に敷かせた布団に横たえる。一瞬持ち上げた身体は痩身というには儚すぎ、立派な成人男性のものであるのに 幼子のような印象を与えた。顔にかかる髪をそっと払う。現れた顔は白を通り越して青く、指先を濡らした汗は冷え切っている。
 草壁は獄寺に湯と簡単な食事を用意すると部屋を後にした。クロームも草壁を手伝うと出て行ってしまったため、今この部屋にいるは雲雀と獄寺だけだった。 静かな夜だ。雲雀は僅かに開かれた襖の合間から外を仰いだ。地下に作らせた日本庭園、その上空に広がる偽りの空は時刻を反映して漆黒に塗りつくされていた が、そこには星も雲ももちろん月も存在することなく、ただただ黒く広がるだけだった。静かな夜だ。獄寺の息苦しそうな荒い吐息だけが、雲雀の鼓膜を揺らし ている。横たわる獄寺に視線を向け、雲雀は彼が纏うスーツのジャケットを脱がせた。青い顔に不自然なほどかっちりと締められたネクタイの結び目に手をか け、ほどく。ワイジャツのボタンを外そうと指先で胸に触れたところで、突然、それまで閉じられていた双眸がぱちり、と開けられた。ぼんやりと、焦点の定ま らない虚ろな瞳が雲雀を捕える。覗いた緑眼に声を掛けようと雲雀が口を開きかけた瞬間、獄寺の瞳が見開かれた。
 「や、だ……もう、……は、な……め……っ」
 「獄寺?」
 だらりと投げ出されていた腕が雲雀の腕を力なく掴み、自身の表情を隠すように俯いた首がとるゆると振られる。かたかたと震える身体で必死に雲雀を押しの けようとする獄寺の口から消え入りそうな拒絶の言葉が零れた。
 「離し、……て、…嫌だ、……いや、嫌……い、や……」
 「隼人!」
 雲雀は強い声で獄寺を呼んだ。びくり、と押さえつけた細い肩が跳ね、うっすらと涙の滲む瞳が再び雲雀を映す。恐怖に彩られた表情は、雲雀が今まで見たこ ともないような表情で、酷く心が騒いだ。震える瞳を真っすぐに見つめ、雲雀はもう一度、隼人、その名を呼んだ。
 「ひ、……ばり……?」
 獄寺が一度ゆっくりと瞬きをし、そうして紡がれたのが自身の名前であることに安心している自分に雲雀は気がついた。自身の気持ちに少しだけ動揺し、けれ どもそれを悟られないように雲雀は出来るだけ静かな声で獄寺に答える。
 「そう、僕だよ」
 「――ここ、は」
 「風紀財団のアジト」
 「そ、……か……」
 獄寺の身体から力が抜ける。すまねえ、ほとんど吐息のように呟かれた声は掠れていて、しかし雲雀はそれに気付かない振りをして「礼を言うならあのクロー ムとかいう子にしなよ」と獄寺の上から身を起こした。
 「あの子が廊下で倒れてた君を此処まで運んでくれたんだから」
 「――クロームが?」
 頷く雲雀にそっか、獄寺は返して軽く瞼を閉じると、震える息を吐きだした。苦しげな表情に、雲雀は「失礼するよ」一言断りを入れて獄寺のシャツに手を掛 けた。ボタンをひとつ、ふたつと外し、襟元を寛げてやる。
 普段日の光にさらされることのない肌が晒され、雲雀はぴたりと動きを止めた。作り物めいた白い肌と、その白さを際立たせる赤。なにをされたかは明らか だ、そしてそれを付けた人物も。ざわり、胸の中で何かがざわめく。首筋から胸元へ、散らばる鬱血痕には薄いものも今しがた付けられたような生々しいものも あり、それがひと夜で刻まれたものでないと物語っている。薄れかけた痕の上に重なるようにして刻まれる所有印に、雲雀は小さく息を呑む。白く細い首に、そ の痕は痛々しいほど鮮やかだった。
 「これ、……」
 思わず零れた呟きに、獄寺は思い出したかのように目を開くと、肌蹴た襟元を直し、雲雀の目から肌を隠す様に身体を起こしかけた。その瞬間袖口から覗いた あり得ないものの存在に、雲雀は衝動的に獄寺を組み敷いていた。
 「な、」
 「これは、何?」
 獄寺の手首を掴み、それを鼻の先に掲げて見せる。そこに残る、拘束痕。その痕も、きっと、一度や二度で付けられたものではない。雲雀には分かった。ひも 状のもので強く拘束されたのであろう手首には青い痣がくっきりと刻まれ、激しく抵抗したのであろう、一部皮の剥けたところにはじんわりと血が滲んでいる。
 「これは、何?」
 「ってめえには関係ねえ!離せよ!!」
 重ねて問いかける雲雀に、獄寺は叫んだ。その言葉が気に入らなくて、思わず手首を掴む手に力を込めると獄寺の顔が苦痛に歪む。衝動のまま晒された首筋に 口付けると、嫌だ、と獄寺の抵抗が強くなる。その声に含まれる感情に雲雀ははっとして顔を上げ、そして後悔した。
 「いやだ、……いやだ、いやだ……」
 獄寺は目をきつく閉じてうわごとのように拒否の言葉を繰り返していた。一度治まったかに見えた身体の震えが蘇り、がたがたと震える身体は今にも壊れそう だった。雲雀は
 「隼人、」
 呼びかけその頬をそっと撫でる。掌で頬を覆うようにして、何度もその名を呼びかけると、徐々に獄寺の身体の震えがおさまり、閉ざ されていた瞳がゆっくりと持ち上げられる。
 「……悪かったよ」
 謝罪の言葉は驚くほど自然に雲雀の口から零れた。雲雀は乱れた獄寺の胸元を軽く整え、押さえつけていた身体から手を離す。獄寺の目を見つめ、雲雀はもう 一度
 「ごめんね」
 獄寺に謝罪した。自身の言葉に驚いたのも確かだが、その気持ちはあまりに自然だった。脅えさせたいわけじゃない、雲雀は溜め息をつくと獄 寺の手首を優しく持ち上げ唇を寄せた。
 「っ、」
 細い手首を舌先で舐め上げると、僅かながらに血の味がした。慌てた獄寺が身を起しかけるのを肩に手を置くことで抑え、さらに舌を添わせる。
 「ひ、ば……」
 「黙って」
 困惑気味な獄寺を言葉で制し、傷ついた手首を清めるように――清める、だなんてただのエゴだ、雲雀は人知れず苦笑した――丁寧に舌で傷口を辿る。滲んだ 血を舐め上げ、擦れて赤くなった部分を唾液で濡らす。とくり、とくりと確かに脈打つ獄寺の命を舌先に感じながら、雲雀は儀式のように獄寺の手首に舌を添わ せ続けた。同じことをもう片方の手首にも繰り返し、ようやく雲雀は獄寺の手首を解放した。脇に置かれたままになっていた布団を獄寺に掛け、そうして見下ろ した獄寺は硬直したままで、しかしそれが怯えから来るものではないということを薄く色づく頬から察して雲雀は小さく笑った。
 「ねえ、」
 雲雀は獄寺の頬をそっと撫でながら、その瞳を見詰めた。
 「君には借りがある。それに、はっきりいって君の醜態はこの10年間で見飽きるぐらい目にしてる。相変わらず君はいつも真っすぐで、わかりやすいから ね」
 「な、てめっ」
 「だから、」
 雲雀は獄寺を真っすぐに見つめたまま、少しだけ、微笑んだ。
 「関係ない、なんて言わないでくれない?」
 獄寺の瞳が見開かれる。その顔がくしゃり、と歪んで獄寺の口元が僅かに緩む。
 「はっ、……明日は槍が降るかもしれねえな」
 「かみ殺すよ?」
 「そのセリフ、俺もこの10年間で聞き飽きた」
 獄寺は小さく笑うと、ふい、と視線を下げ、雲雀から視線を外した。
 「……雲雀、」
 獄寺は言った。
 「あんま、優しくすんなよ」
 その真意を測りかねた雲雀に、獄寺は笑った。
 「お前を身代わりにしちまうかもしれねえだろ?」
 獄寺が笑う。泣きだしそうな顔だった。冗談めかして言われた言葉に雲雀は口を開き、しかし、浮かんだ言葉を放つことなくそっと瞼を下ろした獄寺の目元に 掌を添えて、
 「少し眠りなよ」
 それだけ言う。僅かに笑みを浮かべた獄寺の唇が彼の母国語で礼の言葉を紡ぐ。痛みを訴える胸から目を反らし、雲雀は空いた片手で獄寺の髪を撫でた。掌を 濡らす温かなものの存在にも、気づかないふりをした。
 どのくらいそうしていたのだろう、気づいたら獄寺の口元からは笑みが消えていて、かわりにか細い寝息が聞こえていた。雲雀はそっと瞼を覆っていた掌を退 かし、眠りについた獄寺の顔を覗き込む。その顔色は相変わらず悪く、うっすらと残る涙の痕が痛々しい。何かに耐えるように寄せられた眉は、時折怯えてでも いるかのようにぴくり、と震える。惹かれるままにその頬に手を伸ばしかけた雲雀は、ふと感じた気配に、その動きを止めた。
 「“身代わりにすればいい”……そういってしまえばよかったのに」
 突然響いた声に雲雀は瞬時に懐から取り出したトンファーを構えていた。
 「相変わらずですね」
 クフフ、と薄ら笑みを浮かべつつ扉の陰から姿を現した男に、
 「――六道骸、」
 雲雀は凶器を握る手に力を込めた。
 しかし、
 「彼が起きてしまいますよ?」
 骸の言葉と意味深な視線とに、溜め息と共にトンファーを下ろす。
 「君を招いた覚えはないんだけど?」
 「そうつれないことを云わないでくださいよ」
 睨みつける雲雀の無言の圧力に骸はふっと唇を歪めると、視線を反らして呟いた。
 「彼女、に見せるには酷すぎるでしょう。彼女は彼を慕っていますからね」
 僅かに細められた瞳に骸のいう彼女、に思い当たり、雲雀は眉をひそめた。くだらない、吐き捨てようとしたセリフは小さく漏らされたうめき声に途切れる。
 見下ろした獄寺の表情は歪み、その額には汗が浮かんでいる。布団を握りしめた手は力を入れすぎたためか色を失い、今にも掌の柔い肌に爪先が食い込みそう だ。
 どうすることもできずに獄寺を見つめていた雲雀は自身の横を通り過ぎる気配に顔を上げ、獄寺の枕元に跪く骸に気づいて反射的にその肩を掴む。
 「何するつもり?」
 「恐い顔をしないでください」
 骸はふり向きざまに雲雀の手を払うと、その手をそっと、獄寺の額に添える。
 「少しだけ、暗示を」
 少しの間だけでも安らかな眠りを、獄寺の額に添えられた指のリングが光りを放ち、雲雀は咄嗟にトンファーを振り上げた。しかし獄寺を包む炎はゆらりとや わらかく、常に彼が纏う炎に秘められた禍々しい憎悪はひとかけらも感じられない。骸が小さく何かを呟くと、深く皺の刻まれていた獄寺の眉間からふっと力が 抜ける。獄寺を見下ろし静かに笑みを刻む骸の姿を、雲雀は立ちすくんだまま見守った。
 獄寺の呼吸が穏やかさを取り戻したのを確認してから立ち上がった骸の視線が、トンファーを構えた姿勢のまま固まる雲雀の姿を捕える。
 「僕が彼を傷付けるとでも思ったんですか?」
 揺らぐことのない視線に、雲雀はトンファーを下げるしかなかった。骸はくすくすと喉の奥で笑い、ふと、開け放たれた襖の隙間、覗く空を仰いだ。
 「この空には月がないのですね」
 穏やかともいえる声に、雲雀も空を見上げた。作り物の空は漆黒、ただ漠然と広がっている。
 「闇は月を優しく抱きしめることはできるが、輝かせることはできない。月を輝かせることが出来る唯一には、決してなることができない。どれほど祈って 願っても――皮肉ですね」
 「なに?」
 「何故この闇空で、月は輝けないのでしょう?」
 骸はくるりと振り返ると、柱のひとつに寄り掛かり唇を歪めて見せた。
 「……馬鹿にしてるの?」
 煙に巻くような言葉に凪時の海を思わせる笑み。雲雀は眉を潜めると、一度は下げたトンファーを静かに構えなおす。骸はまさか、と大げさに肩を竦め、 少しだけ、瞳を細めた。
 「あなたは、答えを知っているのでしょう?」
 僕が知っているのように――
 無言の雲雀に骸はくすりと指先で唇をなぞる。ふいに、空気が揺らぎ、骸の深い群青の髪が風もないのに虚空をゆらりと漂った。
 「そろそろ、時間のようですね」
 骸は唇を辿った指先で指を彩る輪のひとつを撫でた。ゆらり、また空気が揺らぐ。反射的に構えた雲雀に、骸は小さく笑うと、眠る獄寺の元に跪いた。恭しく 白い手を掬いあげ、滑らかな動作で口許に運びそっと指先に口づけをおとす。
 「なっ、」
 「このくらい、大目に見てくださいよ」
  声を上げかけた雲雀に静かに、とでもいうように一本立てた指を唇に寄せ、骸は唇をつり上げた。獄寺を見つめるその横顔に一瞬でも自 身を重ねてしまい、そんな自分に雲雀は眉間を抑える。くすり、と空気が揺れ、骸がまた笑ったのがわかった。
 「隼人君によろしくお伝えください」
 顔を上げた雲雀にひとひらの笑みを残し、骸は部屋を後にした。遠ざかる気配がふいに融けるように消え、男が去ってしまったことを告げる。
 再び訪れた静寂に、雲雀は深い息を吐いた。
 「ん、……」
 小さな吐息に、視線を向ける。僅かに寝がえりをうった獄寺の頬に、さらりと銀の髪が影を落としていた。
 雲雀は音を立てないよう獄寺の横に腰 を落とし、寝顔を見下ろす。常日頃その眉間に刻まれた皺は今は見当たらず、そうしてみた獄寺の顔はあどけないともいえるほど無防備だった。とくり、鼓動が 跳ねる。雲雀は獄寺 の頬に流れる髪をそっと掻き上げた。薄く開かれた唇が何かを紡ぐように動き、洩れる吐息を拾おうと雲雀はその唇に唇を寄せた。
 「……、…――、」
 瞬間、獄寺の唇が綻ぶ。 重なりかけた唇の合間、洩れた吐息に雲雀は動きを止めた。綻んだ獄寺の唇が何かを紡ぎ出すように開閉され、そうしてゆるりと弧を描く。それは酷く美しい笑 顔 だった。その笑顔は今まで雲雀が見たことのない――向けられたことのない――ものであり、だから雲雀は微笑む獄寺の唇が紡ぎ出したであろう男の存在を知っ てし まった。瞬間雲雀の心を占めた感情は、嫉妬と名づけてしまうにはあまりに感傷的過ぎた。
 「なんで、……君は――」 
  獄寺の笑みは何処までも穏やかだった。布団の上に投げ出された手首には未だ深く鮮やかな痣が残っている。それでも獄寺は穏やかにあの男の名を呼び、酷く美 しく笑うのだ。ぎりり、握りしめた拳が震える。咄嗟に持ち上げた拳はしかし、振られることなくゆるりと解かれた。雲雀は獄寺の白い手を布団にしまい、銀の 髪 をさらりと撫でてから静かに部屋を後にした。
 後ろ手に襖を閉め、息を吐く。天を仰げばそこにはただ闇が広がっていた。
 『何故この闇の中、月は輝けないのでしょう?』
 投げかけられた問い掛けが頭をよぎる。あなたは答えを知っているのでしょう、骸は言った。雲雀は空を見つめた。広がる空は闇色で、月の姿は見当たらな い。雲雀は、口を開いた。
 「僕は―…」
 その時ふいに、空気が揺れた。
 雲雀は紡ぎかけた言葉を呑み、空から視線を外す。
 「恭さんっ、」
 同時に姿を現した草壁の肩を押しのけ、雲雀は足早に廊下を進んだ。その足取りに迷いはない。二つのアジトを隔てる扉、設置されているモニターを覗きこん だ雲雀は、そこに予想した通りの姿を見つめて眉を顰めた。
 「こんな時間に何の用?山本武、」
 『よっ!久しぶりだな、雲雀』
 不快感露わな雲雀の声に、画面の向こう側で山本は笑ってひらひらと手を振って見せた。
 「何の用、って聞いてるんだけど?」
 『そう怒るなって。用事済ませたらすぐ帰るから』
 山本はまた笑い、画面越しに視線でまっすぐ雲雀を貫いた。
 『獄寺、迎えに来た……そっちにいんだろ?』
 それは、確信を持った問い掛けだった。
 「獄寺隼人はここにはいないよ」
 しかし雲雀はそう言い切った。山本があは、と笑みを零す。
 『嘘吐いたって無駄だぜ?分かってんだから』
 なあ獄寺連れてきてよ、無邪気な笑みを浮かべたまま、山本はそういった。雲雀は画面に張り付いたその笑みから視線をそらすことなく
 「獄寺隼人は、ここに はいないよ」
 と同じ言葉を繰り返す。山本の瞳が、僅かに細められた。
 『相変わらず頑固だな、雲雀は。そんなにいうんなら、――』
 ゆらり、と伸ばされた山本の手がその背に携われた刀の柄に掛けられる。瞬間ざわり、扉を隔てて感じたのは紛れもない殺気だった。山本は口を開く。
 『力ずくでいかせてもらうしかねえかな?』
 「できるものな――……」
 雲雀の言葉は背後から伸ばされた白い指に不自然に途切れた。その指がモニター横のボタンに触れ、雲雀が振り返るよりも先に扉が音もなく開く。驚きに 見開かれた雲雀の視界の端で、銀の髪がさらりと揺れた。
 「おい山本、」
 獄寺は溜め息と共に扉の向こう側に現れた山本を軽く睨んだ。
 「夜中にでけえ声出してんじゃねえよ。迷惑だろうが」
 「獄寺、……やっぱりここにいたのな」
 山本は柄から手を離すとにっこり、笑った。対する獄寺の服はここへ来た時同様一切の乱れなく整えられ、そのきつく結われたネクタイの結び目を、雲雀は口 を開くことも出来ずに見つめていた。
 「探したんだぜ?なあ、こんな時間になにしてたんだ?雲雀、と……」
 一歩、獄寺との距離を縮めた山本の口元には依然笑みが浮かんでいたが、ちらりと雲雀に投げかけられた瞳に灯る冷たい殺気は薄れることがない。瞬間的に懐 に手を伸ばしかけたが、その雲雀と山本の視線は足を進めた獄寺の身体によって遮られた。
 「十代目から仰せ付かった書類を届けに来ただけだ。お急ぎのご様子だったからな。そんなことより――」
 一歩、獄寺が山本に近づく。
 「お前、俺に用があったんじゃねえの?」
 山本を真っすぐに見つめたまま、獄寺は薄らと笑みを浮かべた。妖艶な、笑みだった。眩暈がする。髪を掻き上げるためにあげられた獄寺の手が、指先が、ほ んの一瞬、山本の手の甲を掠めたのが雲雀からも伺えた。獄寺の頭越しに、山本が笑みを深める。雲雀は唇を噛みしめた。
 「邪魔したな、雲雀」
 佇む雲雀を肩越しに振り返り、獄寺は瞼を伏せたままそう言った。その唇が吐息だけで囁いた礼の言葉に気づき、瞬間的に伸ばしかけた雲雀の指先で、扉が音 もなく閉まる。後に残されたのは沈黙と、彼の僅かな残り香だけだった。
 伸ばしかけた手を握りしめ、雲雀は扉に額を付けると深く溜め息を吐く。
 彼の白い手首を掴んで引きとめてしまえばよかった、彼の細い肩を抱き寄せてしまえばよかった、色を失った唇を奪ってしまえばよかった、「身代わりにすれ ばいい」と、そう告げることができればよかった。しかし、雲雀には出来なかった。なによりも、誰よりも、獄寺が山本を深く愛しているのだという事実を知っ ていたからだ。
 雲雀は扉に寄り掛かったまま、襖に切り取られた暗い空を仰いだ。作り物の空に、月は見当たらない。
 月は、この闇空では輝かない。
 ――ああ、そうだよ
 雲雀は小さく笑った。
 ――僕は、答えを知っていたんだ



 月が遠くで泣いている気がした。











2010.12.26
題 名はC.oc.c.oの 「.あ.な.た.へ.の.月」より
[Raining Cats and Dogs]の柏井りおさまへ捧げます