ゆるりと燻る香の煙が、獄寺の脳裏を靄が掛かったかのようにぼやけさせていた。
 焚きしめられた香は、嗅ぎ慣れぬ異国の情緒を漂わせながら官能を孕んだ優しい手つきで鼻孔を擽る。一呼吸ごとにその煙が体内に取り込まれ、ゆっくりと拡散していく感覚に、獄寺は小さく呻いた。
 視界は目元に巻かれた布によって奪われており、重い身体は痺れたように熱を持っている。ぴくりと揺れた指先が柔らかな布地を辿り、獄寺は自身の身体が心地よい絹の上に横たえられているのだと朦朧と感じ取った。
 部屋へ誰かが入ってくる気配がする。獄寺は僅かに頭を動かし、その気配の持ち主が現れるのを待った。
 「……気付いたみたいだね」
 隼人、寝台を覆う布を巻くって入ると雲雀は掠れた声で獄寺の名を呼んだ。ぴくり、と獄寺の体が跳ね、絹繻子で目元を覆われた顔が声を追うようにわずかに動かされる。雲雀は獄寺の様子にゆるりと唇の端を掲げ、その身体を覆う布に手を掛けた。さらりと軽い音を立て、絹が獄寺の肌上を滑る。晒された獄寺の身体は、何も纏ってはいなかった。獄寺もそれに気がついたようだが、抵抗はない。揺らめく炎がその肢体を蜜色に彩り、白い煙が幻想的に包み込む。やわらかな銀糸の髪は、絹の上に乱れている。無防備に晒されたしなやかな肢体に、雲雀は瞳を細めた。
 「ぅ……んっ――……」
 惹かれるままに肌に触れると、獄寺の口から甘い吐息が漏れる。紫壇の寝床を熱い吐息が撫で、波打つ絹の紋様が艶かしく姿を変えた。雲雀は投げ出された獄寺の足をとり、脛に唇を寄せる。滑らかな肌の感触を愛しむように唇を添わせれば、薄く開かれた獄寺の唇がふるり、とものいいたげに震える。雲雀は密かに微笑むと、うっすらと紅く染まった耳元に唇を寄せた。
 「聞こえる?……僕だよ」
 耳元にそっと囁いた言葉に、獄寺の唇が戦慄く。その唇が小さく、雲雀、と自身の名を紡ぐのを、雲雀は暗い悦びをもって見つめていた。
 その時、小さな足音が雲雀に部屋への来訪者の存在を告げた。雲雀はゆっくりと振り向くと、草壁に伴われ部屋へ足を踏み入れるその男を目にして目を細めた。
 「やあ、待ってたよ」
 男は身を小さくして頭を下げると、手に持つ箱をしきりに持ち直して辺りに視線を泳がせた。忙しなく辺りを伺う男に、雲雀は寝台の薄幕を捲って中に横たわる獄寺を指し示す。男の目の色が見開かれ、輝きを増す。男の目の色を見て、雲雀は予想通りの反応に僅かに目を瞬かせた。
 この男――名前はなんといったか――は、腕利きの刺青師であった。妖艶な曲線と繊細な構図で知られ、彼の施す彫り物の鮮やかな色彩には誰もが惹き付けられた。が、自身の刺青を“芸術”に高めたこの男は、その“芸術”を刻み込む身体に異様なまでの執着を見せる。彼の目に叶う艶やかな肌と肉体を持つものでなければ、その刺青を購うことは出来ない。その為、彼の刺青の美しさを知るものは、極少数の人間に限られた。雲雀も、その一人だった。自身の背に刻まれた刺青が疼くのを感じつつ、雲雀は男を見た。男は、さらけ出された獄寺の肢体を舐め回すように見つめ、微かに頷くと、手に持った刺青道具を広げ出した。仄かな炎に照らされ、磨き上げられた針の先が光る。
 男は寝台に横たわる獄寺の身体に手を掛けると、俯せの状態にした。白い肌は熱に赤く色付いていた。
 「君には赤が似合うね」
 雲雀はおもむろに獄寺の背に残る傷跡の一つに指を沿わせた。艶やかな背に残る大小様々な傷跡――それは幾度もの抗争によりその身に刻まれたものだった――はしかし、決して獄寺の魅力を損なう要因には成り得なかった。
 「艶やかな肌だね……刺青が映える」
 しっとりと汗を滲ませる獄寺の肌は、雲雀の手に吸い付いた。見慣れた自身の肌とは違う、透き通るような白さが目に痛い。
 男は晒された獄寺の肩口を掌で一撫でし、絵筆を持って雲雀を仰ぎ見た。男の無言の問いかけに、雲雀は意味深な笑みを浮かべて見せた。
 「蝶がいいな。紅い、蝶……」
 甘い蜜の香と共に、主に羽を広げる蝶――それを、刻み込んであげよう。
 男はにやりと白い歯を見せて笑った。男は絵筆に朱を含ませ左手に持つと、穂を獄寺の背に寝かせる。そして、右手の指に挟んだ針を、その背に打ち込んだ。
 「ぅ、……ぁ、………」
 途端、獄寺の口から小さな呻き声が上がる。香によって感覚は麻痺させられているはずたが、肌に差し込まれる針の冷たさを敏感に感じ取ったのであろう、獄寺は息を呑んだ。雲雀は枕元に腰を降ろし、獄寺の表情を見つめる。
 男は瑞々しい肌に次第に彫り込まれていく朱に、爛々と瞳を輝かせ、ただ黙々と作業に没頭した。朱に混ぜられた焼酎の香が、つんと鼻をさす。
 ちりちりと蝋燭の芯の燃える音に、時折小さく呻く獄寺の声が重なった。煌めく針の刺し跡は、次第に蝶の形相を取り始める。獄寺の唇から漏れる吐息は熱を持ち、薄く開かれた唇の合間から覗いた紅い舌は艶かしく揺れていた。雲雀は蝶が羽化する瞬間を見ているような心地でそんな獄寺の表情を覗き込んでいた。
 香は目眩を運ぶ濃密さで部屋の中に渦巻いている。香から立ち上る一筋の煙がふっ、と消えた時、男は最後の針を獄寺の背中から抜き取った。
 濃厚な香の煙の中、蝶は背中の上で大きく羽を広げ、その媚態を余すところなく晒していた。
 自身の情熱を注ぎ込んだ作品の美しさを、男は虚ろな瞳でじっと見つめた。
 「ごくろうだったね。下がっていいよ」
 立ちつくす男に雲雀はそういうと、それでも下がろうとしない男に溜息を吐き、扉の外に控えていた草壁を呼び寄せた。雲雀はちらりと獄寺に魅せられ続ける男に視線を投げかけると、唇の端だけで笑みを浮かべて見せた。それだけで、草壁は心得たというように頷くと、ぼんやりと佇む男を引きずって退室した。
 部屋には、雲雀と獄寺だけが残されていた。
 雲雀は寝台から立ち上がると、ゆっくりと獄寺に近づいた。紫色の絹の上に身を投げ出した獄寺は、じっと横たわっていた。
 「――やっぱり、君には赤が似合うね」
 獄寺の背を見下ろし、雲雀は満足そうに微笑んだ。掌で背に浮かび上がった優艶な曲線をなぞるように撫でると、糸のように細い喘ぎが獄寺の口に上る。香の効果が薄れてきたのだろう、獄寺の額に汗が浮かび、乱れた髪がその表情に陰を落としている。
 「苦しいでしょ?」
 雲雀は優しく問いかけた。
 「君の蜜に惹き寄せられた蝶が、君を喰らおうとしているんだから」
 「ぅ……、ぁ、……ぁ………」
 鼓膜を揺さぶる声に、獄寺はうっすらと唇を開いた。赤く色付いた唇は唾液に濡れ、絶えず熱い吐息を漏らす。雲雀は思わずその唇に口づけた。
 「ん、……ふ、ぁ………っ」
 愛しむような、それでいて全てを奪うような口付けに、獄寺の口から掠れた声が漏らされる。雲雀は柔らかな獄寺の口膣を味わってから、静かに唇を離した。
 「甘いね」
 この蜜に狂わされた男は何人いるんだろうね、雲雀は唾液で濡れた自身の唇を舐め、獄寺の表情を覗き込んだ。唇を震わせる獄寺を見て笑みを深めると、雲雀はふと寝台から離れた。
 湯の入った桶を手に寝台へ戻ると、雲雀は不安げな様子をその顔に滲ませて布で覆われた瞳を向ける獄寺に近づいた。
 「大丈夫だよ」
 雲雀は目を細めて優しく微笑む。
 「色上げをよくするためだから………苦しいだろうけど、もう少し我慢しなよ?」
 獄寺の耳元へ唇を寄せると、雲雀は労るようにそっと囁いた。そして、獄寺の背の上で、湯の入った桶をゆっくりと傾ける。
 「っ―――ぁああ、………ぁっ……!!」
 途端に獄寺は身を撓らせた。背に止まった蝶がかっと熱を持ち、獄寺の身体を蝕む。数百もの針で刺された背に湯が染み、獄寺は苦痛の喘ぎを漏らして首を激しく振った。濡れた艶髪が舞い、艶やかな細い首筋を打つ。
 「ぅう、……ぁ、………くっ………」
 桶の湯を全て獄寺の背にかけてしまうと、雲雀は腰を曲げてその顔を覗き込んだ。激しい苦痛に獄寺の口からは意味のなさない喘ぎが絶えず漏れ、銀色の髪は悩ましげにその頬に乱れている。寝台に向かい合うようにして立てかけてある鏡台の面に、獄寺の真っ白な足の裏が二つ、映っていた。
 雲雀は手近にあった掛け布を取ると、濡れて艶めく身体を包み込んだ。苦痛を与えないようそっと体を拭っていくと、獄寺は僅かに身を小さくした。ぴくり、と揺れた手が虚空を彷徨い、やがて縋り付くように雲雀の着物の袖を掴む。雲雀は小さく笑いを漏らし、うつ伏せに横たわる獄寺の頭に手を置いた。後頭部できつく縛られていた結び目を片手で器用に解いてしまうと、獄寺の目を覆っていた絹繻子を引く。さらり、と布が獄寺の頬を撫で、その顔の全貌が明らかになった。堅く閉じられていた瞼がぴくりっ、と細かく痙攣し、ゆっくりと、獄寺の瞳が開かれる。銀の睫に縁取られた瞼から求め続けた瞳が覗く様子に知らず雲雀は息を呑んだ。何度か光に慣れるために瞬きを繰り返していた瞳が、ふと、雲雀の姿を映し出す。
 「僕を、見なよ」
 翠緑玉色の瞳を覗き込み、雲雀は色を失った獄寺の頬に手を添わせた。雲雀、と濡れた唇が戦慄く。
 「ん、……で……?――こ、んな………っ」
 「――まだ分からないの?」
 雲雀は膝を折って獄寺の傍に跪くと、投げ出された白い片手を両手で包み込んだ。
 「ほら、ここ……」
 雲雀は獄寺の手を引き、その手を自身の胸に添わせた。獄寺の掌の下で自身の心臓が脈打つのを感じ、雲雀はうっすらと目を細めた。
 「分かるでしょ?隼人、」
 雲雀は獄寺の唇にそっと自身の唇を寄せ、囁いた。
 「愛しているんだよ、――狂いそうなほどに、ね」
 揺らめく獄寺の瞳から視線をそらし、雲雀は腰を上げた。そして、掛け布から覗く薄い肩口をさらりと撫でてから、獄寺の体を覆う掛け布に手を掛けた。ゆっくりと掛け布を取り去ると、鮮やかな朱の蝶が姿を現す。濡れた瑞々しい肌の上で、蝶は妖艶に羽を開いていた。
 「やっと、捕まえた」
 これで君は僕のものだね――そう呟き、雲雀は密かに唇をゆがめた。



 そして、震える蝶にそっと唇を寄せた。










2009.09.24