苦痛に歪む彼の顔に、嗚呼私はずっと彼のこの顔が見たかったのだ、とクロームは気がついた。 彼の手首を拘束する蔓はその鋭い棘で彼の柔肌を傷つけ、うっすらと滲んだ血は甘美な香りを辺りに漂わせていた。この血の香りがあの方を惑わせたのかもしれない、そう考えると途端に面白くない気持ちになる。胸がちりりと妬ける息苦しさに、しかしクロームは表情を崩さなかった。クロームは俯く彼の顎に手を掛け上向かせた。さらり、と煌めく銀髪が揺れ、透きとおる緑瞳がゆっくりと開かれる。この瞳であの方を映したのか、そしてあの方はこの瞳を見つめ返したのか――たとえそれが誰かに借りた体であったとしても、彼を見つめるその瞳の輝きはあの方のものであり、彼に触れたその手の温もりはあの方のものであるのだと、クロームは知っていた――、そう思うと目の前の瞳を抉り出してしまいたい衝動に駆られる。 衝動に震えた指を押さえ込むと、クロームは薄く笑みを浮かべ、目の前の彼――隼人に問いかけた。 「あなたは骸様と寝たの?」 ***
あの日、凪、と優しく名を呼ばれてクロームが目覚めた幻想世界には、彼女が焦がれ続ける骸の微笑みと共に噎せ返るほどの薔薇が咲き誇っていた。鮮やかに主張す紅と白の花に驚くクロームに、骸は微笑みながら白い薔薇を差し出した。手の中で揺れるたおやかな白薔薇に頬を染め、お礼を言おうと顔を上げたクロームが見たのは、穏やかな顔で紅い薔薇を愛でる骸の姿だった。紅薔薇を見つめる眼差しは、クロームの知らないものだった。骸の白い指が紅い花びらを辿り、ざあ、と強い風が吹いた。 いつもは感じられない甘い気配に気づいたのは、その時だった。 ***
骸との関係について、隼人はなんの否定もしなかった。ただ、困ったように小さく笑い、瞼を軽く閉じただけだった。クロームを見ようとすらしなかった。 自由を奪った彼の肩を押せば、その体は抵抗なく冷たい床へと倒れる。途端に、煙草の香りと共にふわりと甘い気配が鼻をついた。クロームはその身体に跨ると、隼人のシャツのボタンに手を掛けた。シャツを肌蹴させるクロームに、それでも隼人は口を開こうとはしなかった。 幻覚を用いて具現化された蔓に連なる棘が隼人の手首に食い込み血を流す。その鮮やかさに目を奪われていたクロームは、ふと、甘やかな気配を覚えて顔を上げた。彼を拘束する蔓に、一輪の薔薇が咲いていた。深紅の薔薇だ。 「紅い、……薔薇」 思い起こされるのはあの時薔薇を見つめていた骸の姿で、クロームは惹かれるままに紅い薔薇に手を伸ばした。指先で軽く引くと、鮮やかな花弁がひとひら、クロームの掌に零れおちる。 「骸様は、紅い薔薇が好き、なの」 天鵞絨の花びらで、クロームは隼人の頬をそっと撫でる。白い彼の肌に、深紅の薔薇は恐ろしいほどよく似合った。そのことに、激しい嫉妬を覚える。 「どうして、……?」 クロームは呆然と呟きつつ、手にした薔薇の棘を爪の先で小さくひっかいた。そうして細い枝から離した棘は不用意にさわると指の皮を破ってしまいそうなほど鋭く、力を入れて押してもつぶれないほど丈夫だった。優美な湾曲を下に向ける形で、側面を親指と中指で挟む。クロームは隼人を見下ろした。 「あなたは骸様とキスをするの?」 視界の端で、蔓に拘束された隼人の指先――そしてその指先はきっとあの方が愛でた指先――が、とん、と床を叩いた。乱れたシャツの間から見え隠れする滑らかな胸が、隼人が息をするたびに上下する。この胸を骸様が愛撫したのかもしれない、そう考えた瞬間胸の中が熱くなり、息が詰まりそうになった。苦しかった。隼人の胸元に手を置けば、確かに脈打つ心臓の鼓動が感じられる。クロームは問いかけた。 「教えて。骸様は、あなたをどう抱くの?」 口を噤んで答えようとしない隼人の胸元に、クロームは棘を埋め込んだ。隼人の口から、微かな呻きが漏れる。 「優しく?激しく?それとも、もっと特別な抱き方をするの?」 新たな棘を丁寧に取り、艶めく肌に押し当て力を込める。 「ねえ、答えて……」 ぷつり、と肌の裂ける音が空気を揺らし、棘は微かな手応えと共に柔肌に埋め込まれる。隼人はただ、唇を噛み締めてその苦痛に耐えていた。三つ目の棘を左の鎖骨辺りに当てながら、クロームは目を閉じてしまった隼人を小さな声で詰った。 「見てて」 それでも目を開こうとしない隼人の頬を、クロームは平手で打った。指にはめていた銀の指輪が――それは彼女と彼を繋ぐものであり、彼と彼とを結ぶものであった――、隼人の肌を傷付ける。隼人が目を見開き、何か言おうと口を開き掛けたのと同時に、クロームは三つ目の棘を力いっぱい押し込んだ。喘いだ隼人の口から、赤い舌が覗く。それはちょうど、彼が愛でた薔薇の色だった。 あの時、ふたりきりの幻想世界に漂っていた知らない気配を思い出す。甘く、微かな苦みを孕んだその気配は酷く扇情的で、舌の端をじりじりと蝋燭で灼かれるような心地がした。薔薇の花弁を撫でるあの方の指を思い出し、それが今目の前で組み敷かれているこの身体を愛でたのだと考えると、強い欲望に襲われた。 「骸様を愛しているの?」 クロームはそっと隼人の頬を撫で、髪を梳いた。重い汗が指を冷たく濡らす。 「………お前ほどじゃない」 隼人は、そう言って自嘲的に笑った。 クロームは隼人の顎に指をかけると、ほとんど唇が触れあう距離でその瞳を覗き込んだ。 「骸様は、あなたを愛しているの?」 隼人は目を閉じて答えを拒否した。たとえ彼が答えを返したとしても、それが真実でないことは知っていた。 クロームは手にしたままだった薔薇の花弁を見つめた。深紅の薔薇は、目にいたいほど鮮やかだ。その花びらを、喰む。それは甘く、かすかに苦い。口に薔薇の花を含んだまま、クロームは隼人を見つめ、微笑んだ。 「・・・――っ!」 そして、その唇を塞いだ。 2009.08.31
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