Title of TOKYO INCIDENT

声に出してほら云って/応えもしない子供の仮面をつけた鮮やかな目/少しあなたを思い出す体感温度/左に笑うあなたの頬の仕組みが 乱れないように/た だ同じ時に遇えた幸運を繋ぎたいだけ/寒 さより明るさが疎ましいのさ/あ の腕の白さまで忘れたら/恨む前に、さあ、恨まれる前に/もしも逢えたときは誇れる様に/あの日繋いだ手の中咲いた/若く信じすぎた狂いそうで 美しい君達/病んだり咲いたり枯れたりしたら/お前は前後不覚になり背後から忍び寄る私の気配さえ認 識できない/凛々しく歪んだ曖昧な猜疑心/キミトハ アルイミサヨナラ/冬が嫌いと云う冷えた手は/と、云いたい僕は一歩も動かない/季節知らないままさよなら/「黒いのは防衛本能」/私の全く知らない様な刺々しい冬を唄う/猫の眼と犬の お耳で/子供が静寂を引き裂いたのは真っ暗闇を呑みこんだのだろう/ 認めたのは僕が所詮季節すら知らない事/わたしが憧れてるのは人間なのです/今宵の耳は優雅に踊っている孤独を探す

















声を出してほら云っ て




 昼休みの屋上、山本が突然「キスしていい?」と聞いてきた。
 はぁ?、と首を傾け振り返ったところで、熱いものに唇を塞がれた。
 キス、された。


 その日は蜃気楼がたつほどに暑い日で、午前中の体育でやった水泳の名残で湿った髪はほのかに塩素の香り、十代目は日直の仕事とやらで職員室へと出向いて しまっているため――お手伝させていただきます!、と言ったら、一人でできるからいいよ!、とおっしゃられた。自ら進んで困難に立ち向かわれるとは、まっ たくなんて偉大な方なんだ!!――、屋上には俺と山本以外誰もいなかった。
 触れるだけで離れていった唇に、ゆっくりと瞬きをする。無意識に舐めた唇は塩辛い。呆然と山本を見つめていると、目の前の野球馬鹿は「キス、したくなっ ちまって」と照れくさそうに頬を掻いて見せた。その頬は仄かに赤く染まっていて――暑さのせいだったのかもしれないし、それ以外のせいなのかもしれない ――、目は水泳中の山本さながらに忙しなく泳いでいる――この野球馬鹿は野球のみならずスポーツならなんでも器用にこなしてしまうようだ、癪なことに ――。
 ふと、一瞬唇に触れた山本の唇が震えていたことを思い出して、ふと、愉快な気持ちになった。
 「お前のキスって、こんなもんなの?」
 「え、」
 ふん、と鼻で笑ってみせれば、山本はびくりと大げさに身を強張らせた。怒鳴られるとでも思っているのだろう、様子を窺うように上目づかいでこちらを見つ めながら身を縮める姿に頬が緩む。酷く、愉快だった。
 「キス、ってのはよ」
 山本に向きなおり、僅かに開いた距離を四つん這いで詰める。思わず、といったように身を引いた山本の背に、とん、と屋上の扉が当たる。山本の腿を両膝で 挟むようにして逃げられなくして、にやりと笑みを浮かべて見せた。
 「……こうするんだぜ」
 「ごく、…っ!」
 ふるりと震えた山本の唇に、噛みつくようなキスを仕掛ける。整った歯列を舌先で撫であげ、驚いたように緩んだ隙間から舌を挿入させる。絡めとった山本の 舌は、その唇同様に熱く、わずかに塩辛かった。舌先を軽く食んで強く吸い上げると、間近にある鳶色の瞳がじわりと滲む。押さえつけるようにして両手を置い ている山本の肩には、じんわりと汗が滲んでいた。
 「ふ、……ん、」
 首筋をやく陽の圧力に耐えかねてゆっくり唇を離すと、つう、と透明な糸が唇を繋いだ。唾液に濡れた山本の唇をれろりと舐めあげてやると、はぁ、と熱い吐 息が返された。
 「これがキスだ。わかったか、野球馬鹿」
 山本に乗り上げたまま、にんまりと笑みを刻んで見せた。首筋に張り付く髪のうっとおしさに片手で髪をかきあげつつちらりと山本を見やれば、山本はごく り、と喉を鳴らしたあとぱっと顔を背けた。ははーん、と思った。
 「なあ、」
 笑みを深めて山本に身体を密着させる。とくん、と合わせた胸の奥で心臓が跳ねた。
 「勃ってる」
 ぐい、っと乗り上げた膝で反応しかけた中心をつくと、「獄寺っ、」と切羽づまった声で名前を呼ばれた。
 酷く愉快だ。
 「キスだけで我慢できんの?」
 もっと色々なことしたいんじゃねーの?、耳元で囁くとひく、と山本の喉が鳴った。
 「ご、くで……ら、――、」
 呆然と自身に向かって伸ばされた腕を、するりと避けて見せる。山本の腕が空を掻いた。離れていった俺を追うようにして上げられた瞳は僅かに潤んでいて、 込み上げる笑みを抑えるのに苦労するくらいだった。
 「ほら、黙ってないで言ってみろよ。……どうして欲しい?」
 意識して誘うような流し眼をし、ゆっくりと唇を舐めて見せる。山本はおれをじっと見つめている。
 その唇は、震えていた。
 酷く、愉快だ。
 「俺は安くねえんだ……手、出したのはお前だろ?ちゃんと、最後まで責任とれよ」
 「獄寺、……俺、――」
 ゆっくりと、山本の口が開かれる。汗ばんだ額から、つう、と透明な滴が頬を伝わった。
 綺麗だな、と、飲み干しちまいてえくらいだ、と、そう思いながら俺は山本の言葉を聞いていた。










応えもしない子供の 仮面をつけた鮮やかな目




 海辺沿いを走る車の中には濃厚な沈黙と、濃密な血の香りが満ちていた。
 視界の端を流れるように通り過ぎていく灯りの欠片を、獄寺は見るともなしに見つめていた。小さくため息を吐き、後ろへと流れていく何かを追うふりをして ちらりと隣を横目で伺えば、運転する山本の横顔が見えた。感情の推し測れない表情は先ほど人を切ったその時と同じで、獄寺は再び小さくため息を吐いた。
 「疲れた?」
 溜め息に重なるようにして問いかけられ、獄寺は今度は顔を横へ向けて山本を見つめた。山本は前を向いたままだった。
 「……別に、」
 「そ、……」
 短く答えた獄寺に、山本も短く返す。信号が、ちらり、と山本の横顔を照らし出した。
 街から遠ざかり、街頭の光、信号すらまばらになったところで、山本は静かに車を止めた。獄寺はポケットから煙草を取り出し口に銜えると、火をつけた。途 端に車内に紫煙が立ち込める。深く吸い込みゆっくりと吐き出すと、車内の空気が淀んだ。山本が窓を僅かに開けたために舞い込んだ風は潮の匂いを孕んでお り、首筋にじっとりと絡みつく。時間を掛けて煙草を吸い終え、吸いがらを灰皿へと押しつけたところで、ふと頬に温かな気配を感じて獄寺は顔を上げた。山本 は獄寺の頬に掌を寄せ、じっと獄寺を見つめていた。
 「傷、ついちまったな」
 血、ついてるぜ、そう言って指先で頬を撫であげられるとぴりり、とした痛みが頬に走り、獄寺はわずかに顔を歪ませる。山本は瞳を細めて獄寺を見つめてい たが、ふと、顔を寄せると獄寺の頬に舌を添わせた。
 「っ、」
 再び走った痛みに声を上げかけた口を、山本の唇に塞がれる。入り込んできた舌に残る血の香りは自身のものなのかそれとも別の誰かのものなのか、獄寺には 分からなかった。山本の舌は熱かった。
 山本は助手席に埋まった獄寺の肩を掴んで引き上げると、ガラスに押し付けてさらに深い口付けを仕掛けてきた。後頭部に外の風で冷えたガラスがあたり、獄 寺はふるりと身体を震わせる。
 「ん、……、っ!」
 獄寺の肩を掴んでいた山本の掌がするりと肩をすべり、ふと、獄寺の首に絡みついた。ゆっくりと加えられていく圧力に、獄寺は目を見開いて山本を見つめ た。とっさに首にかかる山本の腕を掴んだが、刀を扱うその腕はびくともしない。発した言葉は口付けに呑まれる。山本は静かに獄寺を見つめ返すだけだった。
 「ゃ、……まも、と…、」
 ゆっくりと離れていく唇に、しかし、首を締め付ける掌は緩むことを知らなかった。酸素不足に喘ぐ獄寺を見つめ、山本は小さく「獄寺」と呼びかけた。その 呼びかけに含まれる震えに気づき、獄寺はぴたりと抵抗をやめると、じっと山本の瞳を覗きこんだ。
 「お前、さ」
 山本の腕を掴んでいた手を外し、獄寺は首を絞められたまま口を開いた。
 「俺を殺して、それからちゃんと独りで死ねんの?」
 山本は答えなかった。まるで子どものような瞳で――しかしそこには子どもの仮面では隠しきれない深い闇がうずまいている――見つめるだけだった。
 「なあ、……武」
 獄寺は、そう呼びかけると軽く微笑んで見せた。山本は一度静かに瞬きをすると、ゆっくりと獄寺の首から掌を外し、そのまま獄寺を抱きしめた。
 「ごめん」
 暫くの後、山本は囁くようにそういった。
 「獄寺を失うことを考えると不安になるんだ。獄寺を失うのが、怖い。誰かに獄寺を奪われるくらいなら、いっそ俺の手で、って思う」
 でも、と山本は震える声で続けた。
 「獄寺を失ったら、俺、ダメになる。生きてくことなんてできないし、きっと、死ぬことだってできねえよ。……独りでなんて、死ねない」
 「……馬鹿だな」
 獄寺は山本の頭を軽く小突いた。
 「そういう時はな、ひとこと言えばいいんだよ」
 ぴくり、と震えた山本の両頬に両手をあてて顔を覗き込むと、宥めるように微笑んだ。
 「“死ぬな”、って……な?」
 「……うん」
 山本はくしゃりと顔をゆがませて、子どものようにこくりと小さく頷いた。


 そうして獄寺を抱 きしめると、山本は酷く愛おしげに「隼人」とその名を呼んだ。










少しあなたを思い出 す体感温度




 カーテンの隙間から覗いた空の色に気がついて、ふと、隼人は急に走り出したい衝動に駆られた。身を起こし、素肌を突き刺す空気の冷たさにふるりと身を震 わせる。喉には焼けつくような感覚が残っていた。
 ベッドから立ち上がると僅かだが眩暈がした。ゆっくりと目を閉じ、そして、ゆっくりと目を開く。白い光が、世界に満ちていた。疲労をため込んだ身体は休 息を求めていたが、それよりもしたいことが隼人にはあった。脱ぎ捨てられたシャツを拾い上げると、それらを身につけていく。
 「おい、」
 背後から声を掛けられて、ボタンをかける手を一瞬だけ止める。
 「なんだ?」とだけ答えて、隼人の指は淀みなく動作を再開させた。
 「もう帰るのかよ?まだ夜明け前だぜ?」
 「夜ならとっくに明けてる」
 背後から抱き締められ、首筋に口付けが落とされる。軽く首を振って背後の男から逃れると、隼人は最後の仕上げにとネクタイを首にかけて緩く結んだ。
 「もうちょっとゆっくりしてけばいいじゃないか。今日、オフなんだろ?」
 「……なんでお前がそれを知ってるんだ?」
 「それが仕事ですから」
 じろりと睨みつけると、男は肩を竦めて笑って見せた。
 情報屋であるこの男と初めて寝たのは、つい最近だった。情報の報酬が足りない、との言葉にじゃああとどれくらい払えばいいんだ?、と問いかけた隼人に、 あんたの身体一晩分、と男は返した。それから、情報の報酬の代わりにと、隼人は男と身体の関係を持つようになった。それ以上の理由などない。
 ぱさり、と椅子に掛けてあった上着を肩にかけると、男は「本当に、もう帰るのか?」と聞いた。その声があまりに素直に響いたので、隼人は肩を竦めて唇だ けで苦笑した。
 「久しぶりに、青い空が見たい気分なんでな」
 「そうか……、残念だ」
 男は息を吐き出すように笑って、頭をかいた。軽く手を挙げることで男に別れを告げ、背を向けようとした隼人は、ふと立ち止まる。忘れてはならない――い や、忘れられない――ことを、忘れかけていた。
 隼人は振り返る。
 「今日は豪雨」
 隼人が口を開く前に、男はそう言ってふっと瞳を細めた。情報料、と自身の唇をちょんと、射し示す男に、隼人は触れるだけの軽い口付けをして「グラッ ツェ」と囁いた。
 「全く、……俺はお天気お兄さんじゃねえっつってんのに」
 「そういいつつも、毎回調べといてくれるよな。案外満更でもねえんじゃねえの?」
 「うるせえ」
 軽口を叩いていた男は、ふっと、笑みを消すと、間近に迫った隼人の瞳を覗き込んだ。
 「なあ、……お前があっちの天気知りたがるのって、何で?」
 問いかける男の瞳は鳶色で、その瞳は隼人に過ぎ去った日々のことを――そして、遠く離れた彼を――思い起こさせた。溺れるようなデジャブに、しかし隼人 はなんとも思わない振りをして笑ってみせた。
 「さあな。……お得意の情報収集でもしてみればわかるんじゃねえの?」
 「そんな悪趣味なことはしねえよ。……お前の口から、聞きてえんだ」
 隼人はそうかよ、と笑うとするりと男の腕から抜け出しドアに手を掛けた。
 「また会う時まで俺が生きてたら、教えてやるよ」
 「おい、……」
 男の声は閉まる扉に半分千切れて、あとは空気圧となり隼人の後ろ髪を揺らした。くしゃり、と頭をかくと、隼人はなにかを振り払うように溜息をついた。
 すり抜けるように男と一夜を共にしたホテルを出る。ふらふらと雲の上を歩くような感覚だ。自分が酷く希薄に感じられる。気が付いたら走り出していた。未 だ目覚め始めたばかりの街をわき目も振らずにただひたすらに駆け抜け、息が上がってくるのを感じながらもただひたすらに走り抜け、狭く薄暗い路地に入る。 そこで、隼人はやっと空を見上げた。
 「――っ、!」
 久しぶりの青い空は、闇に慣れた隼人の目を危うく潰しかけた。眩しくて、直視できない。もう朝に生きることなどできそうにないと、絶望感にも似た諦めの 中で悟る。一度軽く眼を閉じ目頭を押さえ、そうして再び空を仰ぎ見る。突き抜けるような、群青色。ビルの合間を名前も知らない鳥が飛んでいく。隼人は空を 見上げたまま、その場に崩れ落ちた。
 冴えた群青色の光が雨のように降り注いでは網膜をやいていく。とくり、とくりと耳に響くのは自身の心臓の鼓動だった。瞳がずきりと痛むのを我慢し、隼人 は眩しい空を見上げ続けた。
 どこまでも広がる青い空は、きっと、遠く離れた彼のところまで続いている。冷えているような、燃えているような、そんな青いこの空は、きっと、あの日二 人で見上げた空と同じ。
 生理的にあふれた涙が零れ、こめかみを濡らしていく。温い涙にふと、彼の温もりを思い出した。溢れる涙を拭うこともせず、隼人はただただ青い空を見つめ 続けた。


 今日の並盛は豪雨、お前は其処にいるんだろう

 









左に笑うあなたの頬 の仕組みが乱れないように




 軽く触れるだけで離れていった唇に意気地なし、と小さくなじると、獄寺さんは苦笑して軽く肩をすくめた。その笑 みがあまりにも儚くて、衝動的に塞いだ唇は煙草の味がした。獄寺さんは突然のキスに僅かに目を見開いたが、喰らいつくような深いキスにそっと瞳を閉じた。
 濡れた吐息と共に唇を離すと下手くそ、と掠れた声で笑われる。赤く色づいた唇から発せられる言葉は痛烈なのに、どうしてこんなにも悲しい気配を孕んでい るのだろう。抱きしめた体は確かに立派な成人男性のものであるのに、どうしてこんなにも脆い印象を与えるのだろう。ふいに急き立てられるような気持ちに なって、好きです、と告げると、知ってる、と返された。
 「お前の一番になれないのも、知ってる」
 お前が一番好きなのは綱吉さんだもんな、獄寺さんは私の髪をそっと撫でた。甘えるように薄い胸板に身体を預けると、仄かにコロンの香りがする。とくり、 と耳元で獄寺さんの心臓が跳ねた。
 「獄寺さんだって、ツナさんのこと、好きじゃないですか」
 とくり、とくりと脈打つ鼓動に耳を傾けながら呟くと、髪を撫でる獄寺さんの手が、一瞬、止まった。
 「――お前のことも好きだぜ?」
 「でも、一番はツナさんなんですよね」
 「……そうだな」
 お前はなんでもお見通しなんだな、獄寺さんはそう言って、また、儚く笑った。酷く、綺麗だった。ふいに滲んだ涙に気付きたくなくて、ゆるりと伸ばした指 でふに、と獄寺さんの頬をつねってみる。やめろよ痛い、獄寺さんが呟く。つねったことにより獄寺さんの笑顔は少し歪んだが、それでもなお、綺麗だった。
 「私、獄寺さんのこと嫌いです」
 頬をつねりなが
ら言うと、獄寺さんは訝しげに眉を寄せる。未だ頬にある私の手を、獄寺さんの手が包み込み、そこから優しく外す。 そうして獄寺さんは、綺麗に、笑った。
 「お前、さっき好きって言わなかったか?」
 「そうやって綺麗に笑う獄寺さんは、嫌いです」
 綺麗な獄寺さんの笑みを見つめながら嫌いです、と繰り返すと、獄寺さんは一度ゆっくりと瞬きをし、そして、呆れたように溜息を吐いた。その唇には微笑み が浮かんでいて――相変らす綺麗なその笑みは、でも、あの衝動を掻きたてるような儚さは消えていた――、あ、っと思った次の瞬間には軽く口付けられてい た。
 「俺は今みたいに甘えてくるお前、嫌いじゃねえけど」
 寄せられた唇はやはり苦く、でも、優しい。
 「甘えてません」
 「そうなのか?」
 「そうですよ」
 「そうか」
 「……獄寺さんは、ずるいです」
 「なんとでも」
 くすくすと笑う獄寺さんの唇を唇で塞ぐ。煙草の味がする苦いキスは、嫌いではなかった。
 「獄寺さんも、甘えてくださいよ」
 「十分甘えてるつもりだけどな」
 「もっと、です」
 「もっと、……か」
 獄寺さんはそっと私を抱きよせ、軽いキスを、今度は私の髪に落とす。さらさらと髪を撫でる指先の温もりに、涙が出そうになった。獄寺さんの背中に腕を回 して強く抱き返すと、ぽんぽん、と背中をあやす様に叩かれた。
 「ハル、獄寺さんを好きになればよかったです」
 思わずこぼれた言葉は切願にも似ていて、でも決して現実になることはないのだ。少しだけ、後悔している。
 獄寺さんを一番好きになればよかったです、繰り返すと獄寺さんの吐息が力なく空気を揺らした。
 「……知ってるだろ?」
 お前が俺のことをお見通しのように俺もお前のことなんかお見通しなんだよ、思わず顔を上げた私のおでこを獄寺さんは指先で軽く弾いた。
 「酷いです」
 「お前こそ」
 獄寺さんはにやりと唇をゆがめると、その唇を私のおでこにそっと寄せた。
 「俺は、綱吉さんを好きになって、よかったよ」
 綱吉さんが一番でよかった、獄寺さんは私に微笑みかけた。
 「だって、ほら、俺はこんなにも幸せなんだぜ?」


 そう言って、
 ああ、ほらまた、あなたは綺麗に笑うのだ――











ただ同じ時に遇えた 幸運を繋ぎたいだけ




 いったい俺はどうしちまったんだ、知らない男の酒臭い吐息を首筋に感じながら獄寺は考えた。とりあえず、ここが 暗い路地の一角であるということだけはなんとか理解できる。だが、ぼんやりと霞む獄寺の頭では、それ以上今自身に起こっていることについて考えることはで きなかった。
 身体をまさぐる熱い手がうっとおしく、獄寺は腕を突っぱねてそれを突き放そうとしたが、自身の身体が僅かに前後に揺れただけだった。
 「や……めろ…よ……っ」
 ようやく獄寺の口から紡ぎ出された拒絶の声は酷く弱々しく、その声に目の前にいた男が小さく笑う。
 「大人しくしてろって。すぐに何も考えられなくしてやるから」
 「ざ、けんな………は、なせ……、」
 「酷いな。君が一人で寂しそうにしてたから、俺が慰めてやろうとしてるのに」
 熱い吐息と共に耳元で囁かれ、獄寺はふるりと身体を震わせた。だが、酷く重く感じられる身体は指一本動かすことすらままならない。そういえばさっきこい つに変なもの飲まされたよな、と考えつつも、獄寺は男の汗ばんだ手が胸元を乱していくのを他人事のように見つめていることしか出来なかった。
 男は獄寺のシャツをはだけてしまうと、現れた肌の白さににやりと暗い笑みを口元に刻んだ。そうして獄寺の肌に吸い付こうとした男の肩に、ぽんっと軽く一 つの手が置かれた。驚き振り向いた男の目の前で、その手の持ち主である男は穏やかな笑みを浮かべていた。
 「お楽しみ中のところ、すまねえな」
 男は流れるような動作で口に煙草を銜えながら、続けた。
 「ただ、一つ忠告を。そいつ、粋がってるだけのどうしようもないガキだが、下手に近づくと火傷するぜ?」
 そいつ、と獄寺のことを指さしながら、現れた男は笑って見せた。男が笑うたび、短く整えられた銀髪が僅かに煌めく。そのあまりの優美さに見とれた男の目 の前で、銀髪の男は煙草に火を点けた。紫煙が立ち上り、辺りに特有の刺激臭が立ちこめる。煙に包まれた顔は美しく整っていて、笑みの形に歪んだ唇は薄闇の 中にあってもなお色鮮やかに浮き上がって見える。
 「……なら、お前が相手をしてくれるのか?」
 “お楽しみ”を邪魔した代償を払ってもらおうか?、やっと平静を取り戻した男は不敵な笑みを取り繕うと、銀髪の男を品定めするような目つきで足の先から 頭までじっとりと見つめた。
 「俺が、お前の相手を?」
 そいつの代わりに?
 銀髪の男は笑みを深めた。そうして銜えていた煙草にほっそりとした指を絡ませると、ゆっくりと口から放す。その際ちろりと覗いた赤い舌には、男を誘う色 香が感じられた。溜まらなくなった男がその細腰に腕を伸ばしかけた時だった、細く白いの指先が、男の顎を捉える。
 「おや、こんな所に灰皿が」
 「っ、!!」
 銀髪の男は笑顔のまま、向き合った男の額に赤々と燻る煙草を押しつけた。男は奇妙なうめき声を上げると、額を押さえて床に崩れ落ちる。
 「言っただろ?火傷する、って」
 地面で呻く男を見下ろして、たった今男に煙草を押しつけた張本人はにこやかにそう言い放った。男はその言葉に顔を上げ、蠱惑的とさえいえる笑みを見つめ た。
 「まだそこにいるんなら、もう一度、その灰皿を貸してもらえねえか?灰を落としたいんでな」
 煙草の煙を気だるげに吐き出しつつ、銀髪の男はちらりと男に、もとい、男の額に目をやった。男はその顔を見つめて口を何度か開閉させたが、結局は何も言 わずに足早にその場を去っていった。
 銀髪の男は額を押さえながら去っていく男の後ろ姿をしばらく楽しげに眺めていたが、男が街道に消えたのを見届けると、壁に寄り掛かるようにして座り込む 獄寺に近づき、目線を合わせるように腰を折った。
 「よお、“粋がってるだけのガキ”だった頃の俺」
 なさけねえなあ、隼人は10年前の自身を見下ろしにやりと唇をゆがめた。
 「……るせえよ、」
 「それが命の恩人に対する態度かよ」
 おっと違った“貞操”の恩人だな。
 わざとらしく付け足された言葉にじろりと睨みあげた獄寺に、隼人は笑いその煌めく銀髪を掻き上げた。
 「……もとはといえば、てめえが待ち合わせに遅れたせいだろ」
 「悪かったな。こっちも暇じゃねえんだ」
 それに、隼人は付け加える。
 「てめえの身ぐらい、てめえで守れねえでどうすんだ、お前」
 「………」
 向けられた言葉と視線の鋭さに、獄寺は返す言葉が見つからずに押し黙る。身を縮めるように膝を抱え込んだところで未だ震えの止まらない自身の体に気づ き、獄寺は強く唇を噛みしめた。
 途端、小さなため息が頭上で漏らされ、次の瞬間、獄寺の肩をふわりと優しい温もりが包み込んだ。驚いて顔を上げたところで目の前に自身のそれと同じ緑の 目を認め、獄寺は息を呑んだ。 
 「ま、お前はまだガキなんだから、」
 ガキはガキらしく大人に甘えてりゃいいんだよ、隼人はしゃがみ込んで獄寺の顔をのぞき込むと、瞳を細めて微笑んだ。肩にかけられたジャケットの温もりと 向けられた笑みの穏やかさに、獄寺はかあ、と頬に熱が集まるのを感じて慌てて隼人から視線を逸らす。
 「……年上は全員敵だ」
 「そういやそうだったな」
 ぶっきらぼうな獄寺の言葉に、隼人は苦笑する。
 「その”敵”って、俺も含まれてるのかよ?」
 「ったりめえだろ。例外はねえ」
 「そう言うと思った」
 隼人はぷ、と小さく吹き出した。
 「なに笑ってやがる!」
 「いや、やっぱお前、俺なんだな、って」
 隼人はくしゃくしゃと獄寺の頭をかき混ぜた。ガキ扱いすんじゃねえ、と叫ぶ獄寺に、ガキだろ?、と隼人は笑顔で返す。ひとしきり笑うと、隼人はくわえて いた煙草に指を絡ませ口からはずし、ふう、と細く煙を吐き出した。その変わらぬ煙草の香に、ああこいつは俺なんだな、と獄寺は心の中で呟いた。獄寺の視線 に気づいたのか、隼人は立ち上る紫煙を追うようにして上げていた視線を獄寺に戻し、ふ、と口元を緩めた。
 「年上が嫌なら、お前と同じガキのあいつに甘えればいいじゃねえか」
 「なっ!」
 あいつ、と呟く隼人の表情にその”あいつ”が指し示す人物を知ってしまい――なんて顔しやがるんだ俺、と獄寺は隼人を心中で詰る――、獄寺は顔を赤らめ る。獄寺の反応に、隼人はにやにやと笑みを深めた。
 「たまには甘えてみるのもいいんじゃねえ?強がってばかりじゃ、見えるもんも見えなくなっちまうぞ」
 それにあいつならお前を受け止めてくれるだろうしな、隼人の言葉に獄寺は赤らんだ顔を隠そうと俯いた。そんなことしても目の前の自分自身にはバレバレだ ということは知っていたが、それ以上に、微笑む隼人の顔を見ているのがいたたまれなかった。煙草を挟む左手の薬指、静かに煌めくリングの存在を知ってし まったから。獄寺は口を開いた。
 「お前は、その……、」
 「甘えてるのかって?」
 「っ、」
 もごもごと紡がれた獄寺の言葉に、隼人はさらりと答える。
 「っから、んなハズいこと言うんじゃねえよ!」
 「なに照れてんだ、お前。今更だろ?」
 そういう10年後の自分に、獄寺は軽いめまいを感じて口を噤む。隼人はそんな獄寺におもしろそうに笑うと、  
 「勘違いするなよ」
 と続けた。
 「今じゃ甘えるどころじゃねえ、こっちが甘えさせてやってんだ」
 「な、」
 「だからせいぜい今のうちに甘えとくんだな」
 そういって、隼人はにこりと笑う。ああまただ、獄寺は思った。
 (また、こんな幸せそうに笑いやがって)
 締まりのねえ顔しやがって、と思うのと同時に、こんな風に素直に笑えるようになれれば、と願っている自身に気づいて獄寺はくそ、と口の中で小さく毒づ く。
 「ほら、帰るぞ」
 あいつらが待ってるからな、ほほえみと共に差し出された手に、きらりと煌めく銀の指輪。
 「・・・」
 たまには、いいか。
 どうせここには俺しかいないんだ。
 獄寺は、惹かれるままに、目の前の手に自身の手を重ねた。
 重ねた掌はあたたかかった。











寒さより明るさが疎 ましいのさ




 目が覚めたらここがどこだかわからないということがある。
 しかしそれは目覚める前の夢に同調しすぎた結果であり、脳が覚醒すれば目に映るのが見慣れた――見慣れて、しまった――天井だと自覚できるものだ。
 獄寺はうっすらと天井に浮かんだシミを見つめ、ひとつ、ゆっくりと瞬きをした。陽はすでに西方に傾き、カーテンの隙間から僅かに入り込んだ陽光が部屋を 真紅に染めていた。獄寺はベッドから起き上がり、視線を自身の身体へ落とす。手足は所々内出血をおこして紫に変色し、腰は鈍い痛みを訴え続けている。白い シーツには血と白濁がこびりついており、訪れた眩暈に髪を掻き上げると手首に繋がる鎖がしゃらり、と軽い音をたてた。手錠で拘束された手首は、皮が剥けて ひりりと痛む。
 寝室の扉が予告なく開かれ、手にプレートを持った山本の瞳が上半身を起こした獄寺を捕えた。山本は薄く笑うと、獄寺に近づいた。
 「よく眠ってたのな」
 「……」
 獄寺は山本の視線を真っすぐに受け止め、そして、見つめ返した。山本はふいっと獄寺から視線をそらしてベッドの端に腰かけると、獄寺の後頭部に手を置い てその顔を自身の方へ向かせた。膝の上に置いたグラタン皿にスプーンを差し込み、一口分を掬うと、口元で息を吹きかけ、熱を冷ます。それを、食べろ、とで もいうように獄寺の唇に近づける。獄寺は促されるままに口を開く。クリームと塩気が口内に広がる。唐突に湧き上がる吐き気を抑えながら無理やりそれを喉に 送り込んだ獄寺に、山本は嬉しそうにスプーンを引き、もうひと掬いして、再びグラタンを運ぶ。獄寺はグラタンと山本の熱を感じながら、昔、姉に遭遇して倒 れてしまった時に山本がこうして水やらなんやらを運んでくれたことを思い出していた。しかし、今は、あの時とはまったく違うのだ。
 ねっとりと舌に絡みつくクリームに噎せた獄寺に、山本はちょっと待ってて、とプレートをサイドテーブルに置いて寝室を出て行った。獄寺は遠ざかる山本の 背中をぼんやりと見つめていた。ふと、目の中、痛みが引いて行くのを感じて獄寺は視線を窓辺に投げかけた。光線だ。自由を錯覚させる西向きの大きな窓、太 陽はいつの間にか姿を消して今はもう薄闇が。逢魔が時、と小さく呟いてみる。視界の端、ブランケットが床に落ちていることに気づき、同時に獄寺は自身が素 肌のままでいることを思い出した。途端に感じられる寒さに、獄寺はのろのろとベッドから立ちあがると、床に落ちたブランケットを拾い上げた。その際に、指 先が冷たい鎖を掠め、しゃらり、冷たい音が響く。
 「……何、してんの?」
 瞬間かけられた声に獄寺は身を竦めて顔を上げた。山本が扉を開けて立っている、ということを認知した次の瞬間には、ベッドに倒れこんでいた。続いて響い たぱりん、と鋭い音と頬に生じた熱に、頬を殴られたのだと獄寺は知った。痛みに顔を顰める間もなくのしかかってきた山本を、獄寺は感情の灯らない瞳で仰い だ。山本の唇が震える。
 「 何、してたんだ?」
 「――ブランケット、」
 「ブランケット?」
 「ベッドから落ちちまって、……さみいから、拾ったんだよ」
 「それだけ?」
 「……」
 「……そっか」
 山本は獄寺の上から退くと、傍にあったブランケットを引き寄せ上半身を起こした獄寺の肩にかけた。僅かに掠めた山本の指は温かかったが、その指に嵌めら れたリングは冷たかった。山本の指にあるリングのひとつは獄寺のものであったが、獄寺はそのことについては何も言わなかった。
 山本はベッドから立ち上がると、身を屈めて床に散らばったガラスの破片を拾った。それが山本が今持ってきたコップの残骸であり、先ほど聴いた鋭い音の正 体はこれだったのか、と床に零れた水に獄寺はそのことを知った。
 「まだ細かい破片とか残ってるかもしんねえから、ベッドから降りないようにしてな?」
 山本は獄寺に微笑むと、拾ったガラスの破片をグラタン皿の乗るプレートに乗せ、プレートを手に寝室を後にした。山本は微笑みは穏やかで、山本の声は優し かった。
 おそらく彼はキッチンに行きガラスの破片を片付け再び寝室に戻ってくれば、獄寺を獣のように抱くのだろう。












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