軽く握られた掌がドアに触れる前に、「どうぞ」と声が掛けられる。この部屋の主は、どういったわけかいつもノックの音が響く直前の絶妙なタイミングで声を上げる。獄寺は小さく苦笑しつつ、「失礼します」と部屋に足を踏み入れた。 「獄寺君。いらっしゃい」 「十代目」 窓辺に佇んでいた綱吉は獄寺の姿を認めるとその口元ににこりと笑みを浮かべた。獄寺も笑みで答えつつ、淀みない足取りで綱吉のもとへと歩み寄る。 「先日の抗争についての報告書をお持ちしました」 「もうできたの?」 さすが獄寺君、綱吉は手渡した報告書にさらりと目を通して微笑んだ。 「あ、そうだ。さっきコーヒー淹れたんだけど、もしよかったら一緒にどう?」 「そんな!おっしゃっていただければ俺がやりますのに」 「俺がやりたかったんだからいいんだよ」 座って、と綱吉は視線で獄寺を促した。しかし、と言い淀んだところで「獄寺君、」と綱吉はその名を呼んだ。向けられた視線は否と言わせない雰囲気を孕んでいるように感じられ、獄寺は開きかけた口を噤んで綱吉の視線に従った。獄寺がソファーに腰を下ろすとすぐに、目の前にカップが置かれる。カップからは白い湯気がゆったりと立ち上っていた。一言断ってからカップを口元に運び傾けると、穏やかな苦みが広がる。 「おいしいです」 「よかった」 綱吉は獄寺がコーヒーに口を付けたのを認めると、自身のカップを手にテーブルを挟んで獄寺と向かいあう位置にあるソファーへ腰を下ろした。 「獄寺君、ブラックでよかったけ?ミルクか砂糖、いる?」 「いえ、お気づかいなく」 綱吉の気遣いに微笑みで答えた獄寺は、ふっと、頭をよぎった顔に口元を緩ませた。 「そういえば、山本の野郎は未だに牛乳がないとコーヒーが飲めないんですよ」 いつまでたってもガキのままですよね、脳裏に浮かんだ姿に思わず笑みが零れる。苦笑交じりに漏らした言葉に「……へえ、」と呟く声が重なった。 その瞬間、部屋の空気が止まった、様な気がする。 反射的に顔を上げたがしかし、獄寺の瞳に映ったのはいつもと変わらぬ綱吉の微笑みだけだった。綱吉はカップを弄ぶようにして両手で包みながら、獄寺の視線を感じてか、笑みを深めた。 「山本が例の任務に着いてからもうすぐ一カ月か……」 もうじき帰ってくるころかな?、僅かに首を傾けた拍子に揺れた綱吉の髪が窓から差し込んだ日を反射して煌めく。穏やかな午後だ、いつもと変わらない穏やかな午後だ。綱吉の笑みに詰めていた息を吐きながら「そうですね」と頷き、獄寺はもう一口、コーヒーを口に含んだ。獄寺の動作を見つめていた綱吉が、「ああでも、」と思いだしたように口を開く。 「獄寺君はもうしばらく山本に会えないかもなあ」 「え?」 獄寺は顔を上げた。綱吉は手に持っていたカップをテーブルへと置き、優雅ともいえる動作で――そしてそれはすでに獄寺にとって見慣れたものだった―膝の前で指を組む。僅かに身体を傾けたために窓辺から差し込む光が綱吉の顔に陰を落とし、瞳が隠れる。そうなってしまうと、獄寺には綱吉の表情を読み取ることはできなくなってしまう。 「……何か、問題でも?」 「うん、……実は、任務を頼まれてほしいんだ」 口にされる言葉に反し、鼓膜を揺らす声はどこか面白味を含んでいるように獄寺には感じられた。 「ちょっと厄介な任務でね……獄寺君にしか頼めないんだ」 わずかな窓の隙間から風が入り込み、薄いレースのカーテンを撫でる。それにより様々に変化する光の反射に何気なく視線を向けた獄寺は、その瞳を目にしてしまった。綱吉の琥珀の瞳が、真っ直ぐに、獄寺を貫いていた。思わずぞくり、と、寒気にも似た感覚が背中を駆け上がった、気がした。獄寺はその瞳に宿る感情を測りかね、しかしその動揺を悟られないように、カップを両手で包み込むと静かに口を開いた。 「その、任務とは……?」 慎重に問いかけた獄寺に綱吉はにこりと笑ってみせ、「コーヒー、おかわりいる?」と問いかけた。視線を落としたカップの中には、僅かに残された琥珀色の液体が揺れている。 「いいえ――」 そうして気持ちを落ち着かせようとしてカップを持ち上げた途端、指先に痺れにも似た感覚が走り、思わず緩んだ指からカップが滑り落ちた。毛足の長い絨毯に受け止められたカップが割れることはなかったが、零れたコーヒーが白い絨毯の上にじんわりと広がった。 「すいませんっ」 獄寺は慌てて立ち上がりカップに手を伸ばしかけた所で、そのことに気が付いた。身体が、酷く重い。強烈な眩暈に襲われ、よろめく身体を支えようとテーブルに伸ばした腕は虚しく空をかく。がっくりと倒れ込んだ獄寺は、自分の身に起きたことが分からず、小さく呻いた。 (おかしい、……いったい、何が……) 「そう、これは獄寺君にしか頼めないんだ」 次第に薄れていく獄寺の意識の中に、綱吉の声が響いた。 「―――頼まれて、くれるよね?」 自身を見下ろす琥珀の瞳を認めたのを最後に、獄寺は意識を失った。 BACK/NEXT |